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4月25日は近藤勇処刑の日

慶応4年(1868年)4月25日、現在の流山市にて投降した近藤勇が斬首されました。

ご存知の通り近藤勇は新選組の局長です。

ちなみに1792年の4月25日には、フランス国民議会でギロチンが正式な処刑道具と

して採用されました。

 


新選組は局長の近藤勇や副長の土方歳三が農家の三男坊、末っ子であったように

正式な武士ではない人たちで構成されていました。正式な武士でないがために、

武士以上に武士になろうとしていた集団でした。

 


武士以上に武士になろうとするあまり、その規律は厳しいものがありました。そ

の例が局中法度です。その掟に背いた者は即切腹でした。新選組隊士の人数は最

大時で220名程、切腹人数は50名以上だそうですので、局中法度をいかに徹底履行

していたかが分かります。

 


同じように正式な武士ではない人たちで構成されていたグループに海援隊があり

ます。隊長は坂本龍馬です。

 


海援隊にも海援隊約規というルールがありました。そこには、隊士は脱藩浪人で

あることや、何か問題が起きた場合はすべて隊長である坂本龍馬が処分を決める

というようなことが記述されています。局中法度に背いた場合は即切腹であるの

と比べると緩い内容のように感じます。

 


組織が組織として機能するためには、

1.組織共通の目的、目標
2.組織構成員間の相互貢献意欲
3.コミュニケーション

の条件が満たされている必要があるといわれています。

 


新選組は、内容の良し悪しはともかく、上記1、2,3が満たされていました。

この役割(マネジメントの役割)を担っていたのが副長の土方歳三だといわれ

ています。

 


一方、海援隊は1については、隊士それぞれの志を重視していましたので、海

援隊共通の目的、目標となりますと隊長がその時々で何を考えているのかに大

きく左右されていました。また、坂本龍馬は常に京都、長州等を行ったり来た

りしており、海援隊を留守にしがちでした。そのことから上記2、3について

も条件を充分に満たしていたとはいえません。

 


その結果、新選組、海援隊も最終的には解散しますが、成果(成し遂げたこと)

という点では新選組の方が海援隊に勝っていたように感じます。

 


新選組の最大の成果としては、池田屋事件があります。一方、海援隊は、という

と、海援隊というよりも坂本龍馬一人の活躍といった方が良いかもしれません。

もちろん、そのバックアップとしては海援隊も動いていたのでしょうが、組織と

しての活動は目立ったものとはなっていません。

 


坂本龍馬に新選組の土方歳三ほどのマネジメント力があれば、あるいは、坂本

龍馬の側に土方歳三のような人がいれば海援隊はもっと活躍できていたのかも

しれません。