中長期ゴールと短期ゴールを連動させるマネジメント

文治5年閏4月30日(1189年)、藤原泰衡の軍勢が衣川館にいた源義経を襲い、自

害に追い込みました。源義経を捕縛するように命令を下したのは義経の兄であり、

鎌倉幕府の征夷大将軍であった源頼朝です。

 


なぜ頼朝は義経の追討を命じたのか。それは頼朝が作ろうと描いていた新しい秩

序や社会を義経が理解していなかった、理解しようとしていなかったからです。

 


義経は平家滅亡の最大の功労者でした。義経からしてみれば、平家を滅ぼすことが

源氏の宿願であり、兄頼朝の役に立つことだと思っていました。もちろん、頼朝に

とっても平家を滅ぼすことは重要なゴールでした。しかし、それは最終ゴールでは

ありませんでした。

 


頼朝はこれまでの天皇や公家による政治体制から武家を中心とした政治体制にした

新しい社会を作り上げることを最終ゴールとしていました。平家滅亡はそれに向けた

中間ゴール(マイルストーンゴール)でしかありませんでした。

 


武家を中心とした政治体制を構築するためには、武家の棟梁である頼朝が配下の武士

をコントロールできる状態をつくる必要があります。そのように頼朝が考えていると

きに、部下たちが勝手に朝廷から官位をもらったり、褒賞をもらったりしていては組

織としての統率が取れなくなってしまいます。

 


そのように考えている兄のことを一番理解し、助けなければならない弟義経でしたが、

平家討伐の戦に勝ち続けていく中で、後白河法皇より検非違使という官位をもらってし

まいました。そこから頼朝と義経の対立は深まっていったと言われています。

 


そこには、朝廷権力を頼朝に奪われないように、兄弟の対立を深めることで頼朝の力を

押さえようとした後白河法皇の意図も働きます。しかし、義経はそこまでのことを理解

することはできませんでした。

 

目の前のゴールを達成することは重要なことです。しかし、トップが達成したいゴール

とはどのような状態であり、そこに向けて途中、途中で通過しなければならないマイル

スト―ンゴールは何か、それを阻害するとしたら何が障害となりそうなのかという中長

期の視野で全体像を共有することも重要です。

 

頼朝と義経の間でそのようなやり取り、すり合わせができていれば兄弟の対立も無く、

鎌倉幕府の将軍としての源氏が三代で滅ぶこともなかったかもしれません。