南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日、湊川の戦いにて敗れた楠木正成が弟の楠木正李
と刺し違えて自害しました。
楠木正成は南朝の後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府、足利尊氏が仕える北朝と最期まで戦い抜
き、死んでいきました。後醍醐天皇への忠義ぶりから江戸時代の水戸藩における尊王思想
では、日本一の忠臣として尊敬されるようになりました。
足利尊氏は後醍醐天皇に対抗するため光厳天皇を擁立し、一時は京都を治めました。後醍
醐天皇側の楠木正成と新田義貞が京都を奪還し、足利尊氏は九州に逃れていきました。
多くの武士が尊氏を慕い行動を共にしている状態を見た楠木正成は、後醍醐天皇に南朝側が
有利な状態の今、尊氏と和睦し後醍醐天皇中心の現体制を強化すべきだと進言しましたが却
下されました。(建武の新政は多くの武士が期待しているような政治ではなかったため、武
士の多くは京都を追われた尊氏と行動を共にしました。)
案の定、九州において西国の武士を配下に従えて勢力を大きくした尊氏軍は、京都を目指して
進軍してきました。その報を受けた正成は彼我の兵数の差が大きいことから直接相手を迎え討
つのではなく、一旦京都を退き、尊氏軍を京都に引き入れた上で食料等の補給路を外から断つ
作戦を後醍醐天皇に進言しました。しかし、それは受け入れられずに京都を目指して進軍して
くる尊氏軍をその手前で戦って京都を守れと指示を受けることになりました。
その段階で、楠木正成側が敗れることは明らかでした。それに対して彼は後醍醐天皇に不平不
満を言わずに素直に従い、死を覚悟して戦に向かいました。結果は、前述のとおりです。
会社の中では、上司からの指示内容がどう考えても納得がいかない、その指示とおりにしても成
果が出ないと思われるようなものがあります。その場合に示す反応には3通りあります。
1番目は、納得いかなくてもとりあえず、形式的には指示とおりに動くが成果が出なくても気に
しないという反応です。(成果が出ないのは指示内容が悪いと割り切っている)
2番目は、面従腹背です。指示内容に納得して動いているように見せて、実際にはどうせ成果など
出ないのだからといい加減に動くという反応です。
3番目は、成果が出せるように納得するまで議論し、より良い活動方法を提案するという反応です。
1番目、2番目の反応を示す方は、一見、上司に従順に見えますが、上司が期待している成果獲得と
いう点では、それを無視しており、組織としてムダな動きと分かりながらムダをしていることになり
ます。
組織は共通のゴール獲得を目指すためのものであり、上司の指示を受けて結果を報告するためのもので
はありません。
上司であれば、日ごろから3番目のような反応を取る部下となるような組織づくりを意識して指示命令、
報告受けをしておくことが求められると思います。
誰もが楠木正成のように、ムダと分かっていながら忠義を尽くし、一生懸命上司の指示に応えようと努力
してくれる訳ではありません。
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