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6月19日は日米修好通商条約締結の日


安政5年6月19日(1858年7月29日)、徳川幕府はアメリカとの日米修好通商条約に調

印しました。この調印は、孝明天皇の勅許を得ないままの調印ということで大きな

問題となります。

 


これ以前の嘉永7年3月3日(1854年3月31日)にはすでにアメリカと日米和親条約を締結

しています。この条約は天皇の勅許を得たものではなく、幕府が勝手に締結したことの

事後承諾という形式となっています。一々幕府が天皇の勅許を得て動く必要はないという

のがそれまでの考え方でした。

 


しかし、日米修好通商条約締結時と日米和親条約締結時では日本国内の情勢は変わって

いました。

 


嘉永7年の段階では、まだ幕府の威勢は強かったということもあります。そして、その

段階では、日本が諸外国とどのようにつきあうべきかといった議論の熱がまだ低く、幕府

の対応に強く意見を言うような状況にはなっていなかったということもあります。

 


しかし、黒船が浦賀沖に現れてから約5年の間に日本国中で今後の日本のあり方についての

議論が徐々に高まっていきました。嘉永7年の頃には、攘夷思想(外国人を打ち払うべき)

と開国思想(開国して外国とつきあうべき)に分かれて幕府に対して意見を述べる人たち

が出てきていました。その時の攘夷の筆頭が徳川御三家の一つ水戸徳川家であり、その藩

主が徳川斉昭です。

 

徳川斉昭を先頭に越前藩主松平慶永他は日米修好通商条約締結の調印反対を唱えました。

この徳川斉昭たちのやかましい攘夷思想にこらえることができずに、幕府首脳が取った

対策が朝廷から調印の勅許をもらうということでした。

 


これまで朝廷にお伺いを立てるなどしてこなかったにもかかわらず、外野のうるささを押さ

えるために朝廷から勅許を得て、朝廷の威光で黙らせようと考えました。

 


しかし、朝廷にお伺いを立てれば、幕府の方針に任せる、とお墨付を頂戴できると思ってい

た老中首座の堀田正睦(開国派)の目論見は外れてしまいました。朝廷からは全員の意見を

取りまとめてから勅許を求めるように、とさらに問題解決を難しくするような対応を公式に

言われてしまいました。

 


朝廷からの勅許をもらうことで攘夷派を黙らせようとしていた幕府は、朝廷に勅許を願い出た

ことで返ってうるさい攘夷派を納得させなければならなくなったということです。

 


これは、何の根回しもできていないまま朝廷にお伺いを立てたということになります。朝廷

(天皇を含む公家たち)の開国反対意見を事前に密かに確認していれば、わざわざ朝廷に勅許を

求めるということなどしなかったはずです。そんなことをすれば事をややこしくするだけですの

で。それなら、これまで通り、幕府の威光で調印し、事後承諾で朝廷に報告しておけば良かった

のです。

 


その場合、外野は騒ぐかもしれませんが、天皇の意向を無視して勝手に条約を結んだというこ

とで幕府を責めるような動きにはならなかったかもしれません。

 


仕事を進める中では様々な利害関係者(ステークホルダー)と対峙する必要があります。その

ときどきで自分たちが望ましい方向に進めるためには、その利害関係者に根回しをしておく

ことも求められます。根回しというと裏工作のようなイメージを持つ人もいると思いますが、

事を上手く進めるためには、必要な仕事のスキルの一つだと思います。